オヤマボクチをつなぎにした須賀川そばの美味しさを、
そば打ちの文化と合わせて世界に発信していく。

高社山に沈む夕日と豊かな自然に導かれて。
戦中の東京で生まれ、福岡に疎開して自然豊かな土地で育ちました。戦後、東京に戻ったのは小学校5年生の時。東京タワーが建設される様子を眺めながら、戦後復興とともに変わりゆく東京を体感しました。高校生の頃から好奇心が強く、友人と連れ立っては全国各地を旅していましたね。当時はユースホステル全盛期だったので、そこで知り合った人と一緒に旅行を企画したりと、刺激的でおもしろい毎日でした。旅先の美しい風景や、その土地ならではの食を味わう喜びが、今の自分の原点になっていると思います。
26歳の時に母が亡くなり、そのすぐ後に父も倒れて辛いことが続いた頃、縁あって北志賀高原竜王スキー場の「田川山荘(現ホテルタガワ)」の先代社長と出会い、その10日後には北志賀にいました。その頃の私にとって東京は灰色一色で、とにかくどこかに行きたかったんだと思います。住み込みでアルバイトをしながら、高社山に沈む美しい夕日や、満天の星空に心を癒されていきました。
そんな日々の中で出会ったのが夫です。専業農家だった夫は、冬の間は竜王スキー場でリフトの仕事をしていて、キラキラと輝く大きな瞳や誠実な人柄に惹かれていきました。「いつか民宿を開いて、自分の作った野菜や米を食べてもらいたい。須賀川の良さを伝えたい」という彼の願いが、自分が旅していた頃に思い描いていた夢と重なって、夫と二人で新しい夢に向かって歩み始めました。

いくつになってもおもしろがる心を持ち続けて。
昭和48(1973)年、念願だった「民宿 はちのこ」をオープン。夫のお父さんが「八郎」という名前で、小さい頃から地域の人に「八郎のところの子ども、八の子」と呼ばれていたのが由来です。地元の人間にとっては馴染みのある、楽しいネーミングで気に入っています。
夫の父、母、子ども3人とともに田畑で農業を営みながら民宿をやるのは大変でしたが、楽しかったですね。最初の頃はこちらも経験不足で、逆にお客さんが手伝ってくれたりしてね。それでも畑で採れた野菜やお米、果物だけはたっぷり用意して、お腹いっぱい食べてもらいました。
地域に昔から伝わっていた根曲がり竹を使った「竹細工」や、オヤマボクチをつなぎにする「須賀川そば」の体験を考えたのも夫です。「自分たちだけが儲かるんじゃなくて須賀川が元気にならなきゃいけない」と、地域全体を巻き込んで役場にも掛け合いました。おばあちゃんに教わりながら、昭和60(1985)年頃から受け入れを始め、新聞に取り上げられたこともあって人気となりました。
平成元(1989)年におばあちゃんが亡くなり、翌年、夫が急死してからも、皆に支えられて、そば打ち体験は続けてきました。私の打つ「須賀川そば」は、地元の玄そばを自分で挽き、オヤマボクチをつなぎにする十割そばです。オヤマボクチ特有のコシの強さが特徴で、須賀川地域に伝わる伝統的なそば打ちを教わりたいと、多くの方に呼んでいただきました。コロナ禍で完全にストップした時期もありましたが、最近は海外の方にそば打ちを体験してもらうことが増えましたね。言葉は分かりませんが、単語だけでもなんとか通じるものです。一期一会でお会いする人たちから、知らない世界を教えてもらえるのも楽しいですよ。いつでもおもしろがるのが私の信条。これからもたくさんの人と出会い、広い世界を楽しみながら、須賀川そばの美味しさを伝えていきたいと思っています。


